J 「無信心者から真の信者へ。屑の子でない自覚。金光教の実態。十三日会。 越道徳。親心。」
昭和五十七年六月十四日 朝の御理解
御理解 第八節 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。 無信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」 無信心者ほど神はかわいいと、屑の子があればその屑の子が親として不憫の情というはの増すのですけれど、その不憫の情が増しただけでは、まあ、不憫の情をかけられただけではおかげにならんわけですね。
私は今日、皆さんに思うのは、まあ皆さんの場合は無信心者ではなくて真の信心を求めて信心の稽古をしておられるとしてお話を聞いて頂きたいと思う。ね、
皆さんはもう、無信心者じゃない、いや、それどころか本当に真の信心というものがあるならば、その真から真を追求していく。本当の真の道をわからしてもらおう、真の信心も身につけさしてもらおう、そして願わくば真のおかげを頂きたいと、願っておられる皆さんだと、皆さんそう、先ず思わにゃいけませんよ、ね。どうですか。 真の信心がわかりたい、願わくば真の信心によって真のおかげを頂きたい。そこに至るときになら、神様はもう、皆さんは屑の子ではないという事にね、いわゆる信心を、そこでその、信心をしておかげを受けてくれよと最後におっしゃっておられる。 その信心しておかげを受けるという事が、なら、神様も喜んで下さる、安心して下さるという事になりますよ、ね。
昨日十三日会で、十三日会ではそれこそ、年々歳々という月々やはりこう繁昌の一途をたどっているが参拝者の上においても、昨日が一番多かったでしょうね。お届けが二千八百五十からあっておりますから、ですから、そういう例えば、おかげを合楽で受けておるという事は、ね、信心して、ならおかげ受けておる事になるでしょ。
信心しておかげを受けてくれよとおっしゃっる信心をね、これが、いよいよ本当のものだとは思われません。それは、ここで合楽理念、これはもう人間が助かる、助かりの理念として、もう、最高の理念であるという事はわかった。そして、今説かれてあるのが、その理念です。それが、なら、理念のすべてではない。まあだ、これは限りなく、いうなら真から真を追求して行く事でしょうから、その真がわかれば、わかるだけ、又、それが身についていけばいくだけ合楽の比礼が増して行く事でしょうね いわゆる神様の願に、いうならば、答え奉っていっておるわけなんです。どうぞ、信心しておかげを受けてくれよと、只、病気が治りました、おかげでもう、一家がお金に不自由致しませんといったようなところでとどまらずにね、限りなくそのおかげが広がっていく。いわゆる御理解八節である。広がりに広がっていくおかげを頂いていく事の為に、いよいよ信心してという事になるのです。
そこで私は、思うのですけれども、まあ人情の機微というかね、まあ親子の情を持ってこの御理解は説いておられるわけですね。自分で子供を持ってみて子供の中にいう事を聞かんとやらね、いうなら、出来そこのうたつが居ると、まあ、それがこんな奴は勘当すると親は言うておっても、なら、勘当してもそれにかける不憫の情というのは募るばかりです。それが親子ですね。
そこで私共はね、その、親の心、いうならば神様のお心にね、いうならば立脚しての信心。親神様のお心というものを土台にしての物の見方、考え方、それを、これはよく頂くみ教えですけれども、これは神様から直接私が頂いたみ教えなんですが、
『人力に見切りをつけて、神力にすがれ、人力おのずから湧く』という。
現代、教団来年は百年祭を迎えます。もう、これでは金光教は駄目になっていくばっかりなんだと、もう、そこにいわばわかってきた。何がその駄目になって来たかという原因がまだわからない。なら、まあ、どうしていったらよいかという事もわかっていない、ね、いわば模索中なんです、ね、ね。
この度の教師信行会が沢山な費用をかけて全国から何十人の教師を集めて、三日間にもわたる信心共励があっておるのも、又、そういうところになっておるのじゃないでしょうか。私は思うのにですね、例えば、なら、若先生が申しておりましたが、金光教も少し宣伝をしたらどうかと、テレビなんかでちっと宣伝したらどうかと、いうような先生があったという事ですが、なら、現代助かりもしていない金光教を宣伝したらどういう事になりましょ、なら、ある商店がね、どんどん宣伝しよる、例えば、野菜屋さんにしましょうか、えらい広告にはむご書いちゃったけん買いに行ったところが、もう、萎れた野菜ばっかりしかなかった。そして、隣よりも高かったと、いうならどうでしょう。もう、又と買いに行かんでしょうもんね。
これはもう、三、四年前でしたか、やっぱり百年祭を前にしてのいろんな活動が本部でもなされました。全国に偉い先生方をどっと派遣してここでも久留米の文化ホ-ル、二回にわたってね、宣伝しましたからそれこそ、信心のない者を対象として集まってあそこにいっぱいの信者、又は未信者の人達が集まって金光教の話を聞こうとして集まった。そこで、その後に全国のアンケ-トを取らせてもらって全国あれだけの事をしたが、教会には少しはひびきがあんただろうかと、なかったというのが多かった。あったという人は確かにあの話を聞いて参って来たけれども、もう、いっぺんきりで参って来なかったというような事が事実であった、ね。
お話を聞いたらお話の倍にして、とにかくお教会にお参りしておかげを頂いて助かったというようなら、その宣伝がきく事になるけれども、ね、いわゆる萎れた野菜を売っておって、よそよりも高く売っておって、いかに宣伝、いや、宣伝すればするほどに金光教はつまらんとそういうイメ-ジを与えるだけじゃないでしょうか、ね、
だから、なら、なるほど宣伝もよかろう、テレビ宣伝するのもよかろうけれども、宣伝にのって、なら、教会に参ってもその話がピンとこなかったり、助かりにはつながらなかったら、そんなに何度も参らんでしょうね。やっぱり。
お話を聞けばなるほど、それが、どういう事かというとね、過去百年の金光教の信心はどこまでも道徳的であり、又は普通道徳であるからなんです。いうなら、人情から一歩も出てないという感じなんです。全部が全部とそうという事じゃありますまいね。中には御比礼を頂いてどんどん人が助かっとるという教会もあるのですから、昨日、誰かが言ってましたよね、いうならば、教会が身の上相談的になり下がっておるという事です。人間の考えでね。ある人が裁判問題でおかげ頂きたいと思うてある教会に参った。ところが、その先生は法学を納めておられる方であった。六法全書を引いてずうっと弁護士の替わりまでしてあげた、ね、それで、まあ、おかげ頂かれたか頂かれなかったか知らんけれども、なら、先生が弁護士替わりどんなっとたんじゃ人は助からんですね、ね。
お医者さん替わりになっとったちゃ教会は助からんですね。どこまでもね、いうならば、そういう人情、人間心をふり捨てて、ね、それこそ神情一つに、いうならば、かけさせてもらう。そこから自ずと湧いてくる精進、それがね、自ずと湧く人間の力というものである、ね。
神様に任しておきゃええ、棚からぼた餅が落ちてくるようなものを待つ、というのではない、ね。人力に見切りをつけて神力にすがる、一心にすがる。そしてそこに、神情一筋におかげ頂いておると自ずと湧いてくる人間の力、人間心、その自ずから湧く、いうならば信心というものがね、合楽では教えられるのです。求められるのですね。まあ、それを、んなら、私が私の方の子供なら子供、皆さんにでも同じ事ですけれども、ね、なかなか、いい信心をされ、だからこの人達が十三日会なら十三日会にでも出てくるようになったら、もっと素晴らしいだろうというて十三日会に参って来なさらんかと私が言わん、絶対。
合楽には非常に変わった方のタイプが多いんです。それでいて、それなりに素晴らしい人の真似んでけん信心をなさっておられる方が、だから、私の思いとか私の型に合わせてしもうたら合楽はこのように大きくならんです。私の持たないものを皆さんが持ち寄って下さるから限りなく大きくなっていくんです。
これは私の子供の上にも言えるんです。もう、私は、どんなに、なら、親として目にあまるような事があっても、私はそれに注意した事も悪く言うた事もないです。
目にあまるような時には、そりゃ勿論、神様におすがりするだけです。もう、人力に見切りをつけているわけです。自分の知恵、力でね分別で右がよい、左がよいぞといったような事では、真(しん)の助かりにはつながらない。
先日、竹内先生が申しておりましたが、今、今度ここの青年会の十五年の大会を開く、で、記念出版をする。記念出版をするそれをまあ、ここでいうならば、頭脳の先生達が集まってそれを検討する。若先生を中心にして、してまた、改めて思うたて、なるほど若先生は合楽の二代を継がれる人だなあと、一緒に勉強さしてもらい一緒に仕事さして頂きながら、それを感ずると言うております。
誰がそんな事教えたんでしょうかね。親はなあに、馬鹿んごとしとる、何とも言いもせん。こげな勉強せろとも言わん。なら、特別頭がいいとも器量がいいとも思わんけれども、ね、神様がお育て下さるね。これは、なら、子供達の上だけの事ではありません。合楽で、なら、お取次をさして頂くのは、ここでは私が人情を抜きにしているね。これはどういう事でしょう、ね、私は例えば、今日のみ教えからいうとです、神様は、ね、屑の子ほどかわいいというのが神様の神情である。そんなら、ね、お互いが、いうなら、真の信心求めておる者としてですよ、皆さんが屑の子じゃないですよ今日は。真の信心を求めておる者としてです。
私も限りなく真の信心を頂こうとしておる教師としてですね、これは神様の心になってお取次をさせてもらわなければという事になるのです。だから、場合には非人情にも見えたり、ね、ひょっとすると不道徳であるというふうに見えるような場合があるかも知れません、ね。
道徳を普通の道徳を越えておるのです、ね。いうならば、超道徳です。神様のそのもの心なのです。神情なのです、ね。
だから、皆さんは例えば、真の信心を求めておられるとするならば、皆さんも先ずは、神情一筋にならなきゃいけないでしょう。ね、
昨日上滝さんがお届けをされました。もう、熱心に、生涯かけて朝参りをというように、まあ、熱を入れておられます。家庭の中にちょっとした問題がおこった。
子供の事でそれで親達がいろいろ心配をする。あっ、あそこにも頼まないかん、ここにも頼まないかんというような話がある時に、まあ、お母さんであります、いわゆるお婆ちゃんであります上滝さんが、まあ、娘達、息子夫婦に言うたて、もう、そんなどこに頼みに行くとか何とかじゃなくて神様に一心にすがっときゃよか、と、
そげん事はいらんばいと言うて、まあ、言うて聞かせたけども、まあ、なかなか、わからんというようなお届けでしたから、上滝さんそれも言わんがよかばい、ち、私言いました。ね、あんたといわゆる息子達は違うのだから、お母さんどうしたらならよかろかと言うならば、もう、そげんとけ頼みに行くとは止めんのと言うばってんこちらがねあそこにも願おう、ここにも頼もうといとっとば、こちらが頂いとる信心をそのままおしつけたって子供達にわかるはずはない。だから、それも言わんがよかばいと、まあ申しました事ですけれども、その、いうなら、子供達がてんやわんやしておるのを見てですね、それが目にあまるというか、おかげ受けなければならんと思うなら、孫の事ですから、自分自身がもっともっというなら、黙って治める信心の神髄をいく生き方をですね、身につけていくがよいというのです。そういう生き方がですね、神様の心がわからんとそれがでけんのです、ね。
神様は屑の子ほどかわいい、かわいいから撫でさすりなさる神様じゃないのですね ですから私共もやっぱり、その気にならないといけないという事なんですね。だから、今日は、少し観点を変えての御理解ですよね。なるほど屑の子ほどかわいいと、もう、それこそ以前は私も申しておりました。もう、考えてみると私位な屑の子はいない。我、屑の子の自覚に立て、というてこれはいけません。落ち込むです、もう、自分な屑の子屑の子になっていまうです。はあ、お詫びばっかりしとったっちゃ、おかげにならんです。ね、いうなら、神の子の自覚、しかも神様の心がわかって真の信心を求めておる私、ね、限りなく真の信心を求めて行くと同時に真のおかげを受けたい。氏子信心しておかげ受けてくれよ、とはそういう事だと思うんです。
自分なつまらん、自分な屑の子というて落ち込んでいくなら親はかえって不憫に思うでしょうもん、ね。そうじゃいかん。とにかく、人力に見切りをつける事が先である。でないと神様の心は本当にわからん、ね。わかったらいわゆる、お心に添え奉る生き方をさして頂いたら、いうなら成り行きをいよいよ尊ばせてもらう、黙って治めるという生き方が、いよいよ、いうなら、力を発揮してくるのです。
いよいよ一つね、真の信心を、ね、真の信心をめざさして頂いておる氏子としての自覚に立って、いよいよ神情一筋ね、人力にいよいよ見切りをつけて、自分の知恵、才覚で何が出来るかと、一つわからしてもろうてね、神様の心をそのまま自分の心に頂いて精進させてもらう。いわゆる、自ずから湧く人力をもって精進と、いうのですからその精進には無駄がない。その精進にはそつがない。それにね、いろいろ大変な修行の好きな先生とか修行する先生がもう、これも先だって信行にいってからその、日本の十から集まっとるからいろんな先生がある。もう、長年の布教に出てるけども人が助からん,ね。今度も例えば、その旅費すらもなかった旅費は本部の方で出されるそうですけれども、行くがけ、それでもどうでも、この会合にだけはおかげを頂きたいと言うて、やっとその旅費が出来てこの会合に参画した。
もうそれこそお結界に守り続けて一生懸命の修行をしておられる。しかも何年たっても何年たっても人が助からん。だからね、そのポイントを間違えた修行では駄目だという事がわかるでしょう。ねえ。
真の信心、いうならば、人情を捨てて神情に生き抜かしてもらう修行、いわゆる自ずから湧いてくる人力というものはね、間違いのない、いうならば修行に精進が出来るという事なんです。ね、それを、なら、例えば、ここで言われる天の心、地の心とかね、日月の心とか、とそれをまあ、いうなら、土の心とかね、成り行きをいよいよ尊ぶ、大切にするとか、そういう修行に打ち込んでいくのですから間違いのない修行に打ち込んでいくのですから、ね、そこに実証が生まれてこないはずがないですね。 その実証が又有り難い。本当な事が本当な事にわかっていく事が有り難い。信心がいよいよ楽しいもの喜ばしいもの、しかも確かなおかげを頂きながら、信心を進めていくという事の為には、いよいよね、神様の心を心とする生き方、ね。
なるほど、この神様は屑の子ほどかわいいという神情をもって私の上に臨んで下さる神様、ね。という道理はわかった。そこで私共はね、合楽によって御理念によってね、御理念による助かり、それは、言い換えますと神様の心を心としての信心という事になるからね、いよいよ神様の心も深く広くわからせて頂くと、同時にいわゆる真のおかげもいよいよ八の字である、広がっていくのです。ね、
今日は皆さんにね、真の信心を求めておられる信心しておかげを受けてくれよという、その信心は真の信心をしてくれよ、そして真のおかげを受けてくれよという真の信心にならせて頂こうと精進しておる私達として、今日の話は聞いて頂いたですね。 どうぞ。